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自治体の不正問題を考える

千葉大学 法政経学部 教授 関谷 昇

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ルールとは何か、政治とは何か 第7回


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繰り返される不祥事

 近年、自治体議員によるセクハラヤジ、政務活動費の不正支出、選挙に絡む現金買収による逮捕などが相次ぎ、また東京都においては舛添前知事が政治資金の私的流用疑惑によって辞任に追い込まれるなど、自治体運営の信用を失墜させるような不祥事が続いています。無論、政治倫理の問題や政治とカネをめぐる問題は以前から続いている現象であり、そのたびに政治家の資質が問われ、法による規制や処罰、さらには選挙を通じた民意による判断に晒(さら)されてきました。しかし、こうした不祥事は止むどころか、むしろ悪化している感は否めません。そこには、市民の不信感が政治的無関心を膨らませ、それがさらに政治的緊張感の喪失と不正を生じやすくさせる環境を生むという悪循環があるようにも思われます。
 この問題は、まさに法と政治とは何かを考える上で、極めて重要な側面を炙り出しているところがあります。今回は、そこに焦点を合わせながら、不正問題を少しでも減少させていくために必要なことを考えてみたいと思います。


東京都知事問題が露呈したもの

 猪瀬元知事の選挙資金疑惑や舛添前知事の政治資金私的流用疑惑は、都議会やマスコミによる厳しい追及を経る中、百条委員会を設置するというカードが出てきた段階で、最終的には知事の辞任という形で幕引きがなされました。百条委員会とは、地方自治法100条第1項「普通地方公共団体の議会は、当該普通地方公共団体の事務に関する調査を行い、選挙人その他の関係人の出頭及び証言並びに記録の提出を請求することができる(一部略)」に基づき設置されるもので、正当な理由がないのに議会への出頭・証言・資料提出を拒否した場合は禁錮刑に処されることにもなっているものです(同条第3項)。これは、執行機関を厳しく監視する機能や世論を喚起する効果を有しており、対象とされた者は厳しい状況に立たされることから、そこには不正を質(ただ)すに当たって一定の効力があるとされています。

 ここで考えるべきは、この権限の行使主体が自治体議会であるという点です。議会がこの権限を行使するに当たっては議決が必要であり、具体的には議会が特定の事件を指定して常任委員会ないしは特別委員会に調査を委任した場合に、はじめてこの権限は実行に移されることになっています。要するに、百条委員会の設置は議会の裁量に委ねられ、議会の役割と識見の下に運用されることになっているわけです。

 ところが、まさにその裁量ゆえに、その設置をめぐっては政治的な駆け引きや党派間の闘争に利用されている実態があります。舛添氏問題においては、政治的な駆け引きの中で設置が見送られましたし、政治資金規正法違反にも問われなかったことから、不正の実態如何が明らかにされないままになっています。都知事選挙が終わって以降は、もはや過去の問題として人々の記憶から消されつつあるのが現状です。

 こうした一連の経緯からうかがえることは、不正を質(ただ)すはずの法や制度に抜け穴があるということもさることながら、その運用が極めて恣意的になされているという点です。不正を許さないことを目的として定められた法は、公正さに基づいていかなるものに対しても平等に適用されることではじめて意味を持ちます。政治資金規正法のように規制事項が限られているものは、法解釈による運用に限界があることから、不正の問題はどちらかというと世論の雰囲気に流される場合が少なくありません。責任を追及される人と追及されない人が、怒りに満ちた雰囲気の中で取捨選別されてしまうことがありますし、さらに言えば政治的な後ろ盾のある人とない人によって左右されてしまうこともありえます。まして百条委員会ともなれば、議会内の党は力学によって不正の質(ただ)し方に偏りが出てきてしまうことは容易に予想できるところです。

 このように公正さなき裁きというものは、不正の対象を不平等に取り上げるという結果をもたらします。このことを抜きにして不正を質(ただ)すと言っても、形骸化の謗(そし)りは免れません。今後、政治資金規正法の強化や新たな不正防止の立法がなされるかもしれませんが、その規定内容の精緻化もさることながら、その適用の公正さを確立させなければ、真の意味で政治的な責任を問うことにはならないということを改めて確認しておく必要があるように思われます。


変わらない無責任体制

 この政治的な責任を問うということで、もう一つの象徴的な出来事があります。やはり東京都政を混乱に至らしめている豊洲市場移転問題です。ここで問題の詳細に触れることはしませんが、重要な計画変更がいつ誰によってなされたのかが明らかにされないという事態は、都行政組織の内部で行われている意思決定が首長や議会によって制御されていないということを露呈しています。形式的には組織のトップである首長が究極的な責任者であるとしても、その首長がすべての経緯を把握して実質的な判断を下す状況になく、組織の縦割りの中で責任の所在が不明確になってしまっているという事態は、まさに無責任体制以外の何ものでもないと言わざるをえません。

 この無責任体制は、今に始まったことではなく、この国の政治風土に強く蔓延(はびこ)っているものと言えます。ここで想起されるのは、かつて政治学者の丸山眞男が、明治から第二次世界大戦へと続いた政治体制を「無責任の体系」と呼んだことです。丸山によれば、日本を戦争へと導いた指導層は戦争に対する責任意識をほとんど持っておらず、上からの大義・命令・圧力によって政治が動かされていったという認識しか持っていませんでした。大義の名の下に上意下達の政治力学が作り上げられ、上位者の命令の絶対性だけが前面に押し出され、政治に携わる一人ひとりは何ら責任を持って行動していないという事態は、まさに「無責任の体系」に外ならず、それゆえに目的として掲げられた戦後デモクラシーにおいては、責任を問い得る主体的な政治でなければならない旨が強調されたのでした。

 しかし、そうした無責任体制は、戦後の行政組織の中にも残存し続けており、それに対して政治が責任を取ることができていないのが実情です。専門分化した縦割り組織が断片化した構造の中で業務を遂行する一方、全体としての認識と責任の所在が希薄化してしまう構造は、まさに組織の閉鎖性に起因しており、それがまた恣意的な運用と結びついて、不正の温床となってしまっているわけです。

 そうした問題構造の中で相当な権限を持って行政を質(ただ)していくのは議会の役割です。とりわけ地方自治の場合は二元代表制に立脚しているわけですから、両者の緊張関係の中で固有の役割を果たしていくことが強く求められます。ところが、こうした問題構造があることを忘却し、もっぱら利害の調整に奔走しているのでは、その存在意義そのものが疑われることになります。


混迷する自治体議会

 そもそも自治体議会とは、地域住民の民意を表象するという代表制に立脚するものであり、地域住民の公共の福利を実現するために、選出された議員が一定の権限を持って立法・財政・行政監視の役割を果たすものと考えられています。それゆえ、議員は「民意」を背負っていることを強調し、資源配分をめぐる議論と調整に奔走するわけです。しかし、そうした意味で「民意」をとらえている限り、上述した無責任体制の問題は克服されるどころか、むしろ助長されてしまうということに注意する必要があります。「民意」という大義の下に政治があるとしても、それを具現化するために誰がいかなる権限を有して実行に当たるのかが明確にされなければ、「民意」という言葉は独り歩きしてしまい、「民意」という言葉を持ち出せば何でも許されるといった事態がもたらされてしまいます。その結果、浮遊する「民意」という言葉とともに、恣意的で無責任な政治が繰り広げられてしまうのです。

 実際、住民の利益を表出することが政治的正当性であると考えられてきたので、住民への世話焼き、支持勢力からの要望の行政への取り次ぎ、都道府県議員や国会議員の系列化に属することで得られる特定主体への利益誘導などは、これまで正当な議会活動として認識されてきました。さらにそこには、機関委任事務(2000年に施行された地方分権一括法において全廃されている)が自治体の事務の大半を占め、自治体議会による関与が限定されてきたという構造的要因も影響しています。そうした構造の中で民意を代表するには、政治家と支持者との間における恩顧庇護(ひご)政治を繰り広げるということがもっとも可視的で効果的であるとの認識がまかり通ってきたわけです。


民意とは何か?

 しかし、翻って考えてみるに、そもそも代表され得る「民意」などというものは、あらかじめ明確にされた形で存在しているのでしょうか。「民意」というものがまずあって、代表者はそれを体現するという前提そのものが、実は極めて非現実的なことなのではないでしょうか。人々の意見は、当事者に即せば即すほど多様なものでしかありえない以上、民意がひとまとまりのものとして存在し、画一的なプロセスによって表象され得ると考えること自体、むしろ幻想でしかないように思います。その意味では、議会制の理念に反して、「代表する者」と「代表される者」との一致などはありえないことの方が現実です。

 実際、「代表する者」が人々に支持されることを提示することによって、その反応を「民意」と称し、人々もそれが「民意」であるかのように受け止めているのが実態と言えます。つまり、混沌とした状況にある人々の中で「代表する者」によって「民意」が形成されているわけです。政治的党派が特定利益の実現を訴えかけることによって支持を調達したり、それに異議を唱える勢力が批判を繰り広げたりすることも、「民意」を反映させているというよりは、「代表する者」が「代表される者」に明確な争点を提示し、了解を取りつけることによって「民意」と呼ばれるものが表出されているのです。

 そもそも代表制には、代表者が民意を規定しているという実態を、諸制度を通じて、「民意」を反映しているという形に変換する装置であるという側面があります。それゆえ、特定の利益や信念に固執した立場から「民意」を操作することも自己正当化できてしまうのです。それは、「民意」の名の下に繰り広げられた舛添氏叩きの世論形成にも見られた現象です。

 ここで改めて考えるべきは、「代表される者」との応答的な関係が持続的にとらえ直されているかという点です。代表者が規定する「民意」と比べて、現実というものはあまりにも複雑多岐なもので固定化し得るものではないからです。代表者の問いかけが住民に議論を喚起し、そのフィードバックを通じて見直されるものでなければ、表象されえない人々や事柄は無視されたままになってしまいます。それゆえに自治体議員は、代表機能の不可能性を制度によって隠蔽するのでなく、各自の専門的知見と政治的判断力を持って住民に争点を提示し、議論を喚起し続けることによって民意の不断の形成に寄与しなければならないと言えるのです。

 不正問題を根本的なところから克服していくための一つの方策は、まさに「代表する者」と「代表される者」との不断のやり取りを通じて、その実態が可視化されていくことです。それによって、冒頭に述べたような公正さが共有され、党派的な恣意性や世論の流動性に流されることなく、その健全さを回復していく道筋が開かれていくと言えます。そうした重層的に構築されていく公共空間において、はじめて自治体議会の本来の役割が全うされる可能性が見出されてくるのです。


 編集・撮影/木村寛明(BIZLAW)



この連載記事を読む
 ルールとは何か、政治とは何か

 


関谷 昇

Profile

関谷 昇 [千葉大学 法政経学部 教授]

1971年生まれ。栃木県出身。1995年獨協大学法学部卒業。1997年千葉大学大学院社会科学研究科法学専攻修了、修士(法学)。2000年同大学院社会文化科学研究科日本研究専攻修了、博士(法学)。同大学法政経学部助教授、準教授等を経て、2016年より現職。。
専門分野は、政治思想史、政治学。研究テーマは、[思想研究]近代社会契約説、自治の思想、補完性原理、コミュニティ論。[社会的実践]市民自治、市民参加・協働のまちづくり。

ホームページ : http://www.noborusekiya.com/




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