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効率化か、民主的正当性か

千葉大学 法政経学部 教授 関谷 昇

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ルールとは何か、政治とは何か 第4回


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前回のポイント

 前回は、「公」と「私」との間に引かれる境界線という観点から公共空間のあり方について考えてみました。とりわけ近代以降において発展した「市民社会」は、私的な領域を公的な領域に接続する媒介的な領域であり、公共空間の考えるうえでの基本的な前提となるものでした。市民社会は、自発的結社をはじめとした中間団体が自立的に活動する領域であり、政治権力に回収されない自由の領域です。それは、個人や団体が織りなす共感と信頼のネットワークによって成り立ち、それらが相互に働きかけ合うことによって、公共的な活動が結果的に創出され得るのでした。

 ところが、こうした意味での公共空間は、19世紀以降において大きな変容を被りました。大衆社会の到来です。そこでは、「市民」は「大衆」へと変質し、共感と信頼のネットワークは分断されていくようになります。個人や団体は自己の世界に引きこもるようになり、それによって、私的領域と公的領域を結びつけていた多角的な回路は失われ、公共空間が空虚化していったわけです。その結果、多様性を失った「群れ」としての大衆は、容易に操作の対象となっていったのでした。しかも、その操作において特徴的なのは、経済権力と政治権力が密着することによって、私的領域と公的領域が融合し、その全体が「合理性」や「効率性」によって管理されるようになったということでした。

 今回は、この問題をデモクラシーとの関わりにおいて、さらに踏み込んで考えてみたいと思います。

資本主義の変容と
デモクラシー

 一般的に、資本主義は1970年代以降に大きく変容したと言われています。それまでの資本主義が全盛であった時代は、大量生産と大量消費から生じる恩恵が、資本家のみならず労働者にももたらされ、その好循環は中間階層の増大をもたらしました。とりわけ先進諸国において、多くの人々は貧困や格差といった不安を抱くことなく、ある程度の豊かさを共有することができたのであり、産業社会の発展がデモクラシーを基礎付けるコンセンサスを支えていたのでした。

 ところが、資本主義社会における需要が一定の飽和に達するとともに、途上産業国が大きな成長を遂げ、安価な製品が流入してくるようになると、市場は大きく変わっていくようになります。それによって企業は、そのままの形では安定した利益を得ることが難しくなり、経営の合理化と効率化への比重を高めていくようになります。とりわけ、商品の差異化を通じて消費者ニーズに接近していくとともに、株主からの評価を得るべく、雇用の削減や非正規への転換を積極的に図っていく傾向が顕著になりました。金融市場の加速は、この動きをさらに推し進めているわけです。

 ここで注目しておきたいのは、こうした市場への対応が政治社会そのものを大きく変えつつあるという点です。効率性の追求が徹底されていけばいくほど、資本家と労働者がともに利益を享受するという関係は大きく変わっていかざるをえません。その過剰な追求は、共感と信頼のネットワークの崩壊や市民の大衆化をもたらすこともさることながら、中間階層の減少、さらには富者と貧者との二極化をもたらし、その帰結として貧困や格差が顕著になっていくようになりました。それは、デモクラシーを基礎付けていたコンセンサスそのものが流動化していることを物語っていると言えます。

 

市民=消費者?

 こうした問題状況を政策論的に問う場合、これまでは小さな政府論と大きな政府論との対立として問われることが一般的でした。前者が、資本主義の発展を阻害する政府や国家統治の範囲をできるだけ小さくし、市場における自生的秩序こそが、そこで生じる諸問題を克服に導くと考える立場であるとすれば、後者はそうした自己責任とリスクの個人化こそがデモクラシーの基盤を崩壊させるとし、政府による再分配政策とリスクの社会化によって社会における平等性の確保を求めたのでした。

 しかし、こうした対立図式だけで、今日の問題状況を読み解くことはできません。なぜなら、二極化した状況下では、一部の富裕層よりも多くの貧困層の方が圧倒的に多数であるにもかかわらず、デモクラシーはその抑制として機能していないところがあるからです。この点に注目した社会学者のジグムント・バウマンは、『新しい貧困—労働、消費主義、ニュープア』において、「生産者中心の社会」から「消費者中心の社会」への転換という形で政治社会そのものが変化していることを指摘しています。

 この変化とは、公的領域そのものが私的領域化しているということに外なりませんが、言い換えれば、市民社会の担い手のはずであった「市民」が、「大衆」化し、さらには市場における「消費者」としてとらえられるようになってきているということを意味しています。そうなると、市場において、企業が消費者のニーズに敏感に反応して商品を生産・流通・販売するということと、政治が有権者の求めに応じてさまざまな政策を実現させるということが、言わば同義の意味で考えられるようになっていきます。

 群れの中で孤立化する人々は、市民として不平等社会を批判的にとらえるというよりは、消費者として、できるだけ自己負担を減らそうとし、他者に対しては自己を保守する態度をとるようになります。政治の側も、そうした市民=消費者のニーズに応えるためには、リスクの社会化や再分配政策によって人々に負担を求めることを回避していくようになり、ます。つまり、政治が作り出す政策=商品に、市民=消費者が満足するかどうか、そこに政治の存在理由と評価の基軸が置かれるようになっていくわけです。それは、デモクラシーによる制御が、この満足という指標に還元されつつあるということを物語っていると思います。

ガバナンス=管理?

 こうした市場化の動きが管理ということと相即的であることは言うまでもありません。市場である以上、そこでは徹底した合理化と効率化によって、できるだけコストを削減して価格を抑えていくことが要請されるのは当たり前ですが、同じことが公的領域においても生じているわけです。その典型が、ガバナンス論です。

 これまでの行政は、中央省庁の主導によってヒエラルキーシステムで運用されることが最も効率的なやり方であると信じられてきましたが、80年代以降はいわゆる民営化の流れが顕著になりますし、企業経営的手法を行政領域に適用していくNPMのような手法が本格的に問われるようになりました。また、企業やNPOなど行政以外の多様な主体が公共的活動を担うことが強く求められるようになっています。こうした私的領域化した公的領域において求められるのが、行政以外の手法と主体を秩序付け、制御する「ガバナンス」です。

 ガバメントからガバナンスへの転換ということが言われる場合、共通して問われているのは、より一層の効率性を追求していくことです。公共の新しい担い手として、市民活動団体や民間企業の役割が注目されるのも、政治や行政が公共性を独占することの非合理性と非効率性を克服するところに狙いがあります。

 団体や企業が、公と私を媒介する市民社会において公共的な機能を創出し得ることは、前回触れたとおりで、別に新しいことではありません。ただ、明らかに文脈が異なっているわけです。かつての市民社会において期待されたのは、政治や行政に依存せずに自立的に活動する団体であり、そこでの自由の保障こそが公的領域への接合を可能にしました。これに対して、ガバナンスとして問われているのは、自由というよりも、効率性と合理性です。企業はもとより、自治体、病院、大学、NPOなど社会の様々な主体がガバナンスを展開し、市場に適った団体の存続を維持しているわけです。

 こうした現象を鋭く読み解いているのが哲学者のミシェル・フーコーです。『生政治の誕生—コレージュ・ド・フランス講義1978-1979年度』などによれば、政治をめぐる問いは、伝統的な「誰が統治するか?」から「いかに統治するか?」に根本的に変わりました。「誰が」という問いへの応えが「市民=消費者」になったとするならば、焦点はそのニーズに統治がいかに応えるかに移ります。そこでは、市場の外側において市民が統治を制御するという視点は希薄化し、それに代わって、市場の内側において追求される管理のあり方が制御を生み出していくのです。

 フーコーによれば、gouvernementという言葉は16世紀頃から本格的に使用されるようになり、当時は、魂の統治、家族の統治、地域の統治、国家の統治など多様な形で用いられ、管理・保護・統制といった意味合いを持っていました。それがやがて近代国家の中で国家の統治に収斂(しゅうれん)していくわけです。現代において用いられるガバナンスは、この国家や行政を意味するガバメントと差異化を図るために用いられている側面がありますが、もともとは同義です。その意味では「管理」ということが中心的意味ということになりますが、フーコーはそこに新しい統治技術というものを読み取っています。

 それは、端的に言えば、団体や個人における自己規律および管理の内在化です。例えば、労働者が自分のスキルアップを図り、企業が社会的貢献を果たし、NPOが成果主義を志向し、高齢者が健康の自己管理を徹底する、これらは、政治や行政が権限と財源を以って対処するよりも、それぞれの自己規律としてとらえていった方が効率的です。その方が、政治や行政が主導するよりも多くの成果を望むことができるというわけです。これは、主体において管理が内在化しているということであり、個々の自発性を調達することこそがそれを促進すると考えられているということです。

効率化か?
民主的正当性か?

 こうした意味でのガバナンスがよりよく機能するためには、その団体におけるトップダウンのリーダーシップであり、その強い主導性の下に諸機能が発揮されると考えられています。また、そうした効率性の追求とその成果は、第三者によって評価されることが求められます。自己評価や外部評価、コンプライアンスやアカウンタビリティといったことは、ガバナンスを健全なものとしていくうえで必要不可欠であり、それらが市場化したデモクラシーを内側から制御していくと考えられているわけです。

 問題は、デモクラシー社会において、このガバナンスへの制御がいかに働くかです。なぜなら、デモクラシーとは、政治が民意に応えるということに加えて、政治そのものを多角的に制御していくということが含まれているからです。かつてのデモクラシーが、市民社会における多角的な回路を通じて、民主的正当性を与えていたとするならば、市場化したデモクラシーにおいては、このガバナンス自体が有する制御がそれに変わるのでしょうか。なかなか難しい問いですが、この問いに答えていくことが、流動化しつつあるデモクラシーの行方を見出していくことにつながるように思われます。

 

 編集・撮影/木村寛明(BIZLAW)



この連載記事を読む
 ルールとは何か、政治とは何か

 


関谷 昇

Profile

関谷 昇 [千葉大学 法政経学部 教授]

1971年生まれ。栃木県出身。1995年獨協大学法学部卒業。1997年千葉大学大学院社会科学研究科法学専攻修了、修士(法学)。2000年同大学院社会文化科学研究科日本研究専攻修了、博士(法学)。同大学法政経学部助教授、準教授等を経て、2016年より現職。。
専門分野は、政治思想史、政治学。研究テーマは、[思想研究]近代社会契約説、自治の思想、補完性原理、コミュニティ論。[社会的実践]市民自治、市民参加・協働のまちづくり。

ホームページ : http://www.noborusekiya.com/




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