法律家が
Brexitの渦の中で見るもの
多田 慎(弁護士)、 高橋 由美子(英国ソリシター)
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第2回 EU離脱への針路を探る(1)
「リスボン条約50条」の発動に向かう英国をさえぎるもの
この連載では、Business Law Journal2016年7月号62頁に「英国がEUから離脱した場合の実務への影響」を執筆した多田慎弁護士と高橋由美子英国ソリシターが、タイムリーな情報を発信します。
第1回 は、国民投票結果が判明した当日の、揺れ動く現地の状況について高橋ソリシターにレポートしていただきました。
第2回・第3回は、メイ首相から具体的な発言もなされたBrexitの手続の行方について、EUからの脱退手続を定めたEU条約(リスボン条約50条)の規定に沿って多田慎弁護士が解説します。(Business Law Journal編集部)
国民投票の結果が判明して100日が経過した10月2日、英国のテリーザ・メイ首相は、保守党年次党大会の冒頭スピーチにおいて、来年3月末までにリスボン条約50条(Article 50)に基づくEU脱退の通告を行うことを明言した。
“Brexit means Brexit.”「EU離脱とはEU離脱です」――これは、メイ首相が、Brexitに関して繰り返し発言している一文であるが、実際にBrexitがいつ・どのように進められ、どのような結果となるのかはこれまで謎に包まれていた。
今回は、英国内において今後、準備が本格化することになる離脱の手続について、Article 50の規定を通じてご紹介したい(実際の条文はこちら )。

実際に使われることは
想定されていなかった規定?
Article 50は、2007年12月にEU加盟27か国が調印したリスボン条約において、新たにEU基本条約に登場した規定である(実は、この条約を批准する過程で、アイルランドが国民投票を実施して一度否決されるということがあったため、条約の発効は2009年12月まで遅れた)。リスボン条約は、EEC(欧州経済共同体)設立から半世紀を経て加盟国が増大したEUの新たな基本枠組みを定めることを目的として定められたもので、これ以前のEUの条約には、加盟国の離脱について定めた条文は存在していなかった。
Article 50自体は、英語にするとわずか262語しかなく、一見シンプルな条文である。EU加盟国がその資格を喪失するという重要な手続を定める条文であるにもかかわらず、その具体的な文言は分かりにくいものとなっている。これは、リスボン条約を起草する過程で、Article 50が実際に使われることになるとは想定されていなかった(つまり、今回の英国のような加盟国の離脱は予期していなかった)ためであるとも言われている。
そして、今回の国民投票のキャンペーンにおいても、この規定の存在がスポットライトを浴びることはなく、6月24日の投票結果を受けて、突如として注目されることとなったのである。
Article 50の発動に立ちふさがる
「憲法上の要請」とは?
英国がArticle 50に従ってEUから脱退する手続は、英国内で脱退を決定し、その意図をEUの最高協議機関である欧州理事会(European Council)に対して通告(notification)することによってスタートする。この脱退通告から原則2年以内に英国とEUとの間で脱退に関する協定(withdrawal agreement)が合意されなければ、その時点でEU法は英国に適用されなくなり、英国はEU加盟国としての地位を喪失する。脱退通告によってArticle 50が発動(trigger/invoke)されると言われているのは、この瞬間にEUからの脱退に向けた「原則2年間」のカウントダウンが始まるためである。
10月2日のメイ首相の演説により、英国は2017年3月までに脱退を通告するという方針が示されたことから、今後は英国内においてそのための準備が本格化することになる(具体的な通知のタイミングとしては、欧州理事会の開催が予定されている2017年3月9日〜10日が一つの目安となるだろう)。
ところが、この脱退通告にあたってArticle 50が一つのハードルを課している。脱退を希望するEU加盟国は、脱退通告に先立ち「憲法上の要請に従って、EUからの脱退を決定」することが求められているのである。国民投票で過半数が離脱を選択した英国は、さらにどのような国内の手続を行えば「憲法上の要請」(constitutional requirements)に従ったといえるのであろうか。

9月13日に英国議会上院の貴族院(House of Lords)憲法特別委員会が公表した「Article 50の発動について」と題する18頁にわたる報告書 。Article 50の発動過程では国会(Parliament)が中心的な役割を果たすべきであり、発動に関して国会による承認決議または制定法の立法が必要であると提言する。
ここで注意しなければならないのは、英国には日本や米国のような成文の憲法典がないため、「憲法上の要請」といっても一義的には定まらないということである。オックスフォード大学の憲法学者であるショーナ・ダグラススコット教授は、大別すると以下の4つの可能性があると指摘している(Professor Sionaidh Douglas-Scott, “Chatham House Primer: Brexit” (18 July 2016 ))。
Article 50の発動に必要な手続 |
内容・根拠 |
|
A |
閣議決定による |
・内閣が国王に代わって条約の締結・交渉権限を行使できることを根拠とする(このような行政府の権限は国王大権(royal prerogative)の行使と呼ばれる) |
B |
英国議会の決議による(庶民院の同意) |
・国政上の重要事項については国会の審理が必要であるとする憲法上の慣行(憲法習律(constitutional convention)と呼ばれる)を根拠に、議会下院である庶民院(House of Commons)でEUからの脱退について決議を行う(先例として、最近では2015年12月のシリア派兵に際して庶民院での採択が行われた例がある) |
C |
英国議会の制定法による(庶民院・貴族院の同意) |
・国会(英国議会)が立法事項としてEUからの脱退を承認する旨の制定法(Act of Parliament)を定める(ただし、制定法を必要とする根拠については複数見解あり) |
D |
(Cに加えて)スコットランド・北アイルランド・ウェールズの各議会の同意を得る |
・EUからの脱退は分権議会(devolved legislatures:連合王国を構成するスコットランド・北アイルランド・ウェールズの議会)の立法権限に影響するとして、英国議会の立法プロセスにおいて各分権議会の同意も必要とする |
英国政府は、国民投票の結果に基づいて閣議決定で決定すべきであるというAの立場を採っており、メイ首相も10月2日の党大会において、脱退通告について国会の同意を求めることは民主主義(国民投票の結果)にそぐわないと言及している。したがって、現状としては、EUとの交渉準備が整った段階で、国会での手続を経ることなく、閣議により脱退通告を決定する可能性が高い。
これに対して、英国議会を構成する貴族院の上記報告書は、庶民院による承認決議(B)または両院の同意を経た制定法(C)が必要との立場を採っており、国会の関与を否定する英国政府の解釈とは全く異なっている。これに加えて注目すべき動きとして、現在、英国の裁判所において脱退通告の手続をめぐる憲法訴訟が複数提起されている。一連の訴訟において、原告らは、Article 50の発動には庶民院における決議が必要であって閣議決定のみで脱退通告を行うことは憲法に違反するとの主張を行っており、「憲法上の要請」についての裁判所の判断が待たれる(10月には高等法院での口頭弁論期日が予定されている。原告代理人ホームページ Mishcon de Reya, “Q&A: Article 50 Legal Challenge”参照)。
このように、脱退通告を行う際に必要な英国内の手続は、法的な決着をみていない不透明な状況である。さらに、上記Dのような分権議会の同意を求める解釈も可能であることから、国民投票でEU残留派が優勢となったスコットランド・北アイルランドの動向も無視できない状況にある(メイ首相は首相就任後初の外遊先としてスコットランドを選択するなど、分権政府への配慮を示している)。来年3月までには上記裁判所の判断が出ている可能性が高く、メイ首相がArticle 50の発動についてどのような判断を行うのか注目される。
Article 50(リスボン条約50条)の条文
※和訳は 駐日欧州連合代表部公式ウェブマガジン(EU MAG)より
1. Any Member State may decide to withdraw from the Union in accordance with its own constitutional requirements. |
1. 全てのEU加盟国は、その憲法上の要請にしたがって、EUからの脱退を決定することができる。 |
(第3回 「EU離脱への針路を探る(2)脱退交渉を取り巻く混沌」につづく)
編集/Business Law Journal 編集部
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法律家がBrexitの渦の中で見るもの /多田 慎、高橋 由美子
Profile
多田 慎(Shin Tada)
[弁護士(弁護士法人大江橋法律事務所)]
06年東京大学法学部卒業。08年慶應義塾大学法科大学院卒業。09年弁護士登録。15年コロンビア大学ロースクール卒業(LL.M.)、16年ニューヨーク州弁護士登録。ナバロ法律事務所(ロンドン・ドバイ)での実務研修を経て、16年8月よりICC(国際商業会議所)国際仲裁裁判所・アジアオフィス(香港)にて勤務中。主な取扱分野は国際仲裁・訴訟、コーポレート案件(知的財産権、M&A関係)。
Profile
高橋 由美子(Yumiko Takahashi)
[英国(イングランド・ウェールズ)ソリシター(フィールドフィッシャー法律事務所(ロンドンオフィス))]
大阪外国語大学(現:大阪大学)、英国エクセター大学大学院卒業。在ロンドン英系大手法律事務所にパラリーガルとして勤務後、2015年9月より現職。主な取扱分野は競争法、在欧日系企業のコーポレート案件。